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ミニ・コラム
(平成30年度掲載分)
【遺跡から隕石を見つけよう】(第137回)
 今回は隕石(いんせき)の話をします。埋蔵文化財と隕石、どちらも土の中から発見されることが多いという共通点はありますが、片や人間の文化的、生活的活動によって生み出されたもの、片や自然(宇宙)が創り出したものです。
 そもそも隕石とは、宇宙塵(うちゅうじん)が宇宙空間から大気中に突入し、燃えつきずに地表まで落下してきたものをいいます。2018年10月現在、日本で発見された隕石は52個(9月に愛知県小牧市に落下し、現在国際隕石学会に登録申請中の隕石を含む)。そのうち3個が秋田県内で発見されています。面白いことにその3個がいずれもあきた埋文の近く、仙北平野に落下しているのです(図1)。
 白岩隕石は1920年に畑の中から掘り出されました。掘り出したおばあさんがひ孫に「坊、ホラ砲丸アゲルヨ」と言って渡したとのことで、後に東北大学での鑑定によって隕石であることがわかりました。仙北隕石は、1900年より前に落下したものが旧家の神棚に祀られており、それを国立科学博物館が調査し、1993年に隕石と確認されました。また、神岡隕石は1942年頃田んぼに落下したところを拾われ、地主の家に保管されていたものが2002年に再発見されたものです。その後秋田県立博物館、秋田大学を経て、国立極地研究所が詳しく分析し、隕石であることが確認されました。いずれの場合も、発見した人や関係者が「これは普通の石ではない!」と気づき、さらに、それを専門機関に橋渡しをする人がいた、というところがポイントです。これらの隕石の実物や複製は秋田県立博物館で見ることができます(写真)。
 日本で落下が記録されて保管された隕石のうち、最も古いと考えられているものは861年(平安時代)の直方隕石、次いで1632年(江戸時代)の南野隕石です。もしかするとそれら以外にも、落下した後で有力者の家や神社などに保管されていた隕石があったかもしれません。それらの隕石が、墓などの遺跡から発見される可能性はきっとあると思います。海外では、約5000年前の遺跡の墓所から発見された鉄製ビーズが、鉄隕石を加工したものであることがわかったという例もあります。隕石は、発掘現場で見つかってもそれとは気づかれないかもしれません。発掘や考古学に関わる多くの人が隕石の存在を頭の片隅にとどめて、「この石は隕石かも?」と声をあげる日が今後あることを期待しています。
   
上図1:秋田で発見された隕石の位置
(国土地理院発行20万分の1地形図を使用) 
上写真 秋田県立博物館での隕石の展示状況
左上:白岩隕石(複製)
左下:白岩隕石(実物の一部)
右上:仙北隕石(複製)
右下:神岡隕石(複製)
(仙北隕石の実物は国立科学博物館に展示されています。) 
【なまはげの面―その系譜―】(第136回)
 1978(昭和53)年、重要無形民俗文化財に指定された男鹿のなまはげは、小正月行事として秋田県民に親しまれている。鬼のような仮面を被った仮面仮装儀礼は、日本海沿岸のみならず太平洋側や東南アジアなどにも広く分布する。怖い形相の鬼面は、長い髪に2本の角が生え、大きな目と鼻、牙を備えた大きな口が特徴である。角のない鬼もいて、必ずしも角が鬼面の条件ではない。
 「桃太郎の鬼退治」にあるように、一般に鬼は、恐ろしい形相、怪力、荒い気性で、悪の代名詞とされ、地獄に堕ちれば鬼による罰がまっている。宮中の年中行事には、追儺(ついな)と呼ばれる疫病を除く儀式があり、黄金四つ目の仮面を被った方相氏(ほうそうし)が盾と矛で鬼を追い回す。鬼退治が疫病駆除を表している。追儺は中国にはじまり、7世紀末に日本に伝わった。鬼の悪役はこの頃からの伝統がある。
 鬼面はどうであろうか。鬼面は、屋根の両端に飾る鬼瓦にその伝統が認められる。8世紀平城宮の鬼瓦は、顔の全面が巻き毛で被われ、釣り上がった目、鼻孔の脇まで裂けた大きな口、上下には牙を貯えている(第1図)。口を大きく開いたライオン、つまり獅子の形相と通じている。鬼瓦は7世紀後半には寺院に装着され、建物に侵入する邪気をはね除けてそれを守護する。鬼の面を善用に用いている。
 朝鮮半島では、怪人模様を描いた磚が5世紀新羅の窺岩面廃寺から出土した(第2図)。顔面は前述鬼瓦の形相で、爪が長く、腕には短い羽が生える。鬼の形相で、全身が表現された珍しい資料である。腹部にはベルトが周り、帯金具が表現される。この鬼は役人としての役割を担っている。
 中国の宋・南斉時代(5世紀中葉から後葉を中心とする時期)の金家村墓からは、二重の墓門の第一門に、獅子の全身像が描かれている図像が見つかった(第3図)。5・6世紀頃には、それまでの虎の役割が、西域からの獅子に置き換わったとされる。570年に埋葬された貴族墓では、門の上位に獅子の顔を大きく描く。口が開いて、その中心の上部には大きな鼻と目が接近する。正に、鬼瓦やなまはげの形相と一致する。このように見ていくと、なまはげの面は、中国文化に根付いた獅子まで辿り着いていくようである。
 獅子の顔を立体的に表現したのが獅子頭、面的に表現したのがなまはげの面であると考えられる。
 
(参考文献)
町田 章 1987『古代東アジアの装飾墓』 同朋社 
毛利光俊彦 1980「日本古代の鬼面文鬼瓦―8世紀を中心として―」
『研究論集』Ⅳ 奈良国立文化財研究所
 上第1図:平城宮の鬼瓦
(毛利光1980より)
 上第2図:窺岩廃寺の怪人文様
(町田1987より)
上第3図:金家村墓のライオン
(町田1987より)
【五つ子のやきもの-織部向付-】(第135回)
 秋田中央警察署の建設に伴って、平成17年度に発掘調査が行われた秋田市の古川堀反町(ふるかわほりばたまち)遺跡から、美濃桃山陶(みのももやまとう)と呼ばれるやきものが出土しました。美濃桃山陶は16世紀末~17世紀前半にかけて、現在の岐阜県土岐(とき)市から可児(かに)市にあたる地域で焼かれたやきものです。茶道具中心のやきもので、茶人だけでなく武士や経済力のある商人たちに好まれ、京都や大阪などの都市遺跡や城跡から多く出土します。この美濃桃山陶の一種である織部(おりべ)は、写実的な植物文様や幾何学紋様と銅緑釉(どうりょくゆう)などの釉薬(ゆうやく)を組合わせた個性的で色彩豊かなやきもので、現代も多くの人々を魅了しています。
 古川堀反町遺跡で出土した織部は、青織部の向付(むこうづけ)と呼ばれる器(うつわ)です。向付は茶の湯の懐石(かいせき)料理で組物(くみもの)として使用されるため、同じ意匠の5客がセットとして作られます。出土した青織部は全て平向付(ひらむこうづけ)と呼ばれる形で、中央にススキの文様が施されたものが5点ありますので、セットとして購入されたものと思われます。
 織部向付のセットを持っていることから、古川堀反町遺跡で暮らした人々も、懐石料理を楽しんでいたことでしょう。秋田県民会館の建て替えに伴って今年度から行われている久保田城跡の発掘調査は、江戸時代に佐竹氏の家老だった渋江内膳(しぶえないぜん)の屋敷があったところです。渋江家の人々は、どのようなやきもので日々の食事に彩りを添えていたのでしょうか。
上写真:織部(おりべ)
 
【トクラ遺跡から出土した土器の実測と拓本】(第134回)
 実測は立体的な遺物を二次元の図にする作業です。土器の形・文様・製作時の調整痕など様々な特徴を観察し図化します。そのため、絵やスケッチと違い必要な情報が正確に第三者へ伝わるように形や文様を計測します。
 拓本は墨と和紙(画仙紙)を使って土器の文様などを転写する作業です。写真や実測図では表現しにくい文様や表面の微妙な凹凸を簡単に、そして鮮明に表現することができます。
 今回は東成瀬村トクラ遺跡でみつかった縄文時代晩期の土器の実測図と拓本を紹介します。
上写真①:実測・拓本で使う道具(いっぱいありますね。どの道具が何をするものかわかるでしょうか。)
上写真②:実測する土器(復元・補修しました。詳しくは第119回ミニコラムで。)
上写真③:実測図(よ~く見ると濃さの異なる線を使い分けて表現しています。1mm以下の精度を求められます。)
上写真④:土器上半部の拓本(きれいな文様がよくわかります。) 
 
【リニューアル!~平成30年度企画展~】(第133回)
 秋の行楽シーズンに向けて、現在開催中の平成30年度企画展「ザ・ミニコラム~埋文職員おすすめ 秋田の宝~」を9月にリニューアルしました!。6つの展示コーナーが刷新され、ますますパワーアップ!。今年度は、このホームページの「ミニコラム」で紹介された遺跡や遺物などから厳選して、時代順に展示しております。いつもの企画展では、「○▲遺跡の成果」とか「○×地域の平安時代」などテーマが絞られておりますが、今回は、各コラムごとにテーマが異なるので、バラエティに富んだ展示となっています。
 リニューアルにあたり、展示品を出すため本センターの収蔵庫内を探しておりますと、思わぬ(忘れていた)遺物に出会います。「こんなのあったんだ~」「これはかっこいいから紹介したいなぁ」というものがけっこう見つかったりします。ただ、企画展にはそれぞれテーマがありますので、テーマに合わないと展示はできません。今回も「ミニコラム」で紹介されていないものは「アウト」です。ああ、残念。いつかは「蔵出し」したいなと企んでおります。
とはいえ、今回の企画展はバラエティに富む企画ですので、珍しい展示品も用意いたしました。「ナウマン象の歯」や「馬の歯」など埋蔵文化財か?というものから、県指定文化財の戸平川(とびらかわ)遺跡の「漆塗櫛(くし)」も加わりました。2月14日まで開催しておりますので、皆さんもぜひ企画展に足をお運びいただき、「秋田の宝」をご鑑賞ください!。
上画像①:企画展の様子 上画像②:漆塗櫛(戸平川遺跡)  上イラスト:ナウマン象のぱおくん 
 
【3Dと考古学】(第132回)
 近年、考古学の世界でもハイテク化が進み、遺物や遺構を3Dで計測しようという試みが全国で行われています。3D計測はレーザーや写真を使って計測対象を立体的に記録する方法で、実測作業の効率化はもちろん、普及啓発活動への活用も試みられている技術です。例えば、普段は大切に保管されている遺物の3Dモデルを作成して、自由に閲覧できるようにネット上に公開するといった利用や、遺跡全体を3Dで復元し、最近流行りのVRゴーグルを使って遺跡見学を行うなど多くの可能性を秘めています。
 遺跡を発掘するということは遺跡を破壊することも意味します。伊勢堂岱遺跡や払田柵跡などのように現地保存がなされている遺跡は稀で、多くの遺跡は発掘調査が終了したあとは削平され、遺構は跡形もなくなってしまうのが現状です。細かい問題はさて置き、破壊されて直接見ることが困難になってしまうものを3Dで記録しておくということは、一昔前からすれば夢の技術だったはずです。従来までの記録方法である平面図や断面図、記録写真が不十分だとは思いません。ですが、新しい技術が出てきた今、従来までの記録方法を再考し、遺跡の持つ情報をいかに後世に遺していくかという事を改めて考える時期が来ているのかもしれません。
 3D計測技術をどういう形で活用していくのかといった事は現在も全国で検討されている最中です。3Dプリンターでレプリカを作ったり、3Dモデルで土器の細かい部分を観察したり、3D計測と一言で言っても、できることが多いのが悩みの種でもあります。あんなことができるかも、こんなこともできるかもと想像しながら活用法を探っていくことができるのもこの手法の魅力ではないかと思います。
みなさんはどのような活用法が思い浮かぶでしょうか。国宝の土偶を3Dモデル化してぐるぐる回しながら観察する、なかなか楽しそうだと思いませんか?
上画像①:払田柵跡西石塁の3Dモデル…単色のため凹凸が分かりやすい。
上画像②:払田柵跡西石塁の3Dモデル…色や質感(テクスチャ)をもたせたもの
上画像③:あきた埋文特別展示室の展示品を一部3Dモデル化したもの 
 
【遺跡地図を知っていますか?】(第131回)
 「秋田県遺跡地図」を知っていますか?その名の通り、遺跡のある場所を示した地図で、最新のものは秋田県教育委員会がインターネット上で公開しています。「秋田県遺跡地図情報(http://common3.pref.akita.lg.jp/heritage-map/)」試しに、自分の家や学校の近くを見てください。意外な場所が遺跡として登録されていることに驚かれるのではないかと思います。

 遺跡は、史跡公園として整備されている、標柱が立てられているなどの特別な場合を除いて、地面の下に隠れているため分かりません。誰でも簡単に遺跡の場所を知ることができるように遺跡地図は作られています。
 では、遺跡地図はいつから、どうして作られるようになったのでしょうか?『秋田県遺跡地図』が初めて刊行されたのは1976(昭和51)年、この前身となる秋田県文化財調査報告書第1集『秋田県遺跡地名表(埋蔵文化財包蔵地一覧)』が発行されたのは、1963(昭和38)年の事です。この頃、日本は高度経済成長期を迎え、各地では大規模開発が行われていました。秋田県も例外ではなく、開発工事によって、今まで知られていなかった遺跡が顔を出し、誰に知られることもなく破壊されていくことが問題となっていたのです。


 こうした社会情勢の中で、文化財保護法が整えられていきました。遺跡のある場所で工事を行う者に文化庁長官への事前の届出を義務付けると同時に、国や地方公共団体には、どこに遺跡があるかを把握して広く一般に知らせる義務がある、という事が示されたのです。「秋田県遺跡地図」を県が発行しているのはこのためです。


 実際に地図を見てみましょう。写真①は、1976年に発行された最初の遺跡地図です。5万分の一の地形図に、遺跡の場所が赤い点で示されています。

 写真②は、全県を3つのエリアに分けて発行した2番目の遺跡地図(1987~1991年刊行)です。2万5千分の1地形図が使用されるようになった他、遺跡の示し方も点から面(範囲)へと変わっていることが分かります。

 写真③は、全県を9つに分けて発行した3番目の遺跡地図です(2000~2008年発行)。②と見比べると、新しく高速道路できていることや、高速道路上に並ぶように遺跡が増えていることが分かります。そう、今も遺跡の数は増え続けているのです。(最初の遺跡地図に掲載されていたのは815遺跡でしたが、現在では5,000を超える遺跡が登録されています。)

 4番目の遺跡地図としてインターネット版が公開されたのは2010年のことです。インターネットを利用することにより、新しく発見された遺跡もすぐに公開できるほか、道路整備などに伴う地図の変化にも対応できるようになりました。インターネットにさえ接続できれば、いつでも誰でも最新の情報にアクセスできるようになったのです。
インターネット版の秋田県遺跡地図は、スマートフォンでも閲覧することができます。地図を片手に、身近な遺跡を調べてみてはいかがでしょうか。
上写真①:1976年に発行された最初の遺跡地図
上写真②:2番目の遺跡地図(1987~1991年刊行) 
上写真③:3番目の遺跡地図です(2000~2008年発行) 
 
【あきた埋文発掘準備!(H30_5月中旬の様子)】(第130回)
 普段、あきた埋文では、発掘調査や整理作業、展示などの様々な仕事を行っています。特に、発掘作業では、たくさんの道具が必要になります。そこで、発掘作業が始まる前にあきた埋文の職員は協力して、道具の点検や整理、今年は木棚づくりまでいろいろな仕事をしています。
 写真①は、駐車場の前に発掘道具を並べて、点検を行っている様子です。発掘道具は、長い間使っていると壊れてしまうものもあります。そこで、使える道具を選別し、壊れた道具は修理に回します。
 写真②と③は、道具を収納するための木棚を作り直しているところです。みんな慣れた手つきですね。この木棚は、大分昔から使っているので、部品が外れていました。そこで、発掘に使っていた釘や廃材を再利用して修理しました。
 そんな私たちを応援してくれているのか(?)、タヌキも私たちの仕事をじっと見ていました。(写真④)発掘道具を整理している様子は普段、目にすることが少ないと思いますが、この作業をしないと発掘調査はできません。もし、道具の整理をしている様子を見かけたら、もうすぐ発掘調査がはじまることが分かるでしょう。
写真①:発掘道具の点検 写真②:発掘道具を収納するための木棚作り 
写真③:木棚補強作業  写真④:応援してくれている(?)、タヌキ 
 
【調理道具と料理の変化】(第129回)
 「おにぎらず」をご存じですか? 漫画で紹介されてから話題になった料理です。
 海苔にご飯を敷いて、具を乗せて、海苔ごとご飯で具を包みます。真ん中から切ると具が見えて華やかになりますし、おにぎりより幅広い具が使えます。ラップやアルミホイルを使うと形を整えやすくなり、素手で食材に触ることもなくなるので、傷みにくくもなります。
 それでいて、おにぎりと同じように持ち運ぶことが出来て、箸がなくても食べられる。それが「おにぎらず」です。このおにぎらずを作るには、食材をまとめて包める道具が必要です。つまり、海苔かラップなどの道具がなければ、おにぎらずという料理は誕生しなかったことでしょう。
 同じように、「この料理にはこの道具が必要」な場面がたくさんあります。 おまんじゅうを蒸かすためにはセイロが必要ですね。コンビニエンスストアであんまんを蒸かすのに使っている機械も一種のセイロです。揚げ物をするためには、油を高温に熱することが出来る鍋が必要です。煮物をしたり、ご飯を炊いたりするためには、水を入れて長時間火にかけることが出来る鍋が必要です。揚げ物・煮物はもちろん、何かを焼くためには、火をつけたり消したり火力を調節したりできる設備が必要です。大きな動物から肉を切り出したり、皮の固い果実から果肉を取り出すためには、刃物や鈍器が必要です。これらを逆に考えると「どんな道具があったか」によって「どんな料理を作れたか」がわかります。
 この方法で、「この道具がある時代はどんな食生活をしていたか」を推測することも考古学の一部です。
 日本では、石器時代には石器を使って食材を切り出し、焚き火で焼くことが出来ました。植物の葉で食材を包んで蒸し焼きにしたり、動物の皮に水と焼石を入れて食材を茹でることも可能だったはずです。動物の皮を火にかけると燃えてしまいますが、水が入っている場合は水が熱を奪い、水蒸気になることで動物の皮にかかる熱は100℃以上の温度にはあがらないのです。ただし、時間をかけて煮炊きするとやはり動物の皮は傷んでしまうので不向きだったことでしょう。
 長時間の煮炊きが可能になったのは、土器が発明されてからと考えられています。土器は動物の皮より火に強いので、水分を完全に蒸発させることで塩の結晶を採ることもできるようになりました。塩分を運ぶだけなら海水のままでも可能ですが、塩にした方が遙かに運びやすいので、動物を追って内陸へ入るのも楽になったでしょう。そして硬い食材も長時間の煮炊きで軟らかくすることが出来るようになり、食材の幅が大きく広がったと考えられます。
 以上の推測を裏付ける、煮炊きや製塩の痕跡なども、国内の遺跡の調査で数多く発見されています。一方で、土器があるならば揚げ物も可能だったと考えられるのですが、現在のところ動植物から採った油を使った痕跡があるのは奈良時代以降、しかも”灯り”の燃料としてです。「この道具があれば出来るはず」のことでも、実際には行われていないということはもちろんあり得ます。ですが、もしかしたら奈良時代以前に揚げ物をしていた痕跡がこれから見つかる可能性も?
 そうやって昔の食事を推測すると、なかなか豪華な食生活をしていたような気がしますね。
写真①:縄文風スープづくり 写真②:縄文風クッキーづくり1  写真③:縄文風クッキーづくり2 
 
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