TOP   平成19年度   平成20年度   平成21年度  平成22年度 平成23年度 平成24年度

ミニ・コラム(平成24年度掲載分)
■埋蔵文化財の「記録保存」(第58回)

 文化庁によれば「やむをえず遺跡を現状のまま保存できない場合には事前に発掘調査を行って遺跡の記録を残し(記録保存)」ておくことが、文化財保護法によって求められていると解説されます(文化庁HP)。道路建設やほ場整備の事前調査として埋蔵文化財センターが行っている発掘の大半は、この「記録保存」のための調査にあたります。
 ところで、この「記録保存」という考え方は、元々、遺跡など埋蔵文化財に対する処置の裏付けとして出されたものではなく、放っておくと失われてしまう民俗など包括的に対象とした考え方であったようです。私たちが暮らす社会は様々な習俗、習慣を生み出しますが、それらは放置しておくと変化したり、消え失せたりします。それらのなかには有形、無形を問わず、文化財として重要と認められるものがありますので、それが失われる前に記録をとって残しておくことが大事だ、と認められて出された考え方であったようです。
 この考え方を地下に包蔵される遺跡にも適用したのが埋蔵文化財の「記録保存」ですが、これは自ずと習俗、習慣などを対象とした民俗文化財などとは基本的に異なります。地下に包蔵される埋蔵文化財は、崩落など自然の地形改変による場合を例外として、人が手を加えなければ護られていることになるからです。地下に包蔵される文化財に影響を及ぼす工事があれば、それから護るためのやむをえずの方策として処置なのです。
 さて、この「記録保存」の「記録」が今まさに概念的転換を迎えています。従前の写真や図面、そして文字記録のほとんどがデジタル化の波で、大きく様変わりしました。私たち埋蔵文化財保護の現場でも拾い上げられる情報は一層に精緻になり、微細なそして高い精度のものへ変わりました。そしてそれと歩調を合わせて紙に書かれた(描かれた)記録は、その役割をデジタル化されたデータそのものへ替えられつつあります。さらに、調査の成果である報告書までもが電子的な媒体によって保存され、その利用までインターネット上で可能な時代となったのです。「記録」を保存し後世に残すことの根本の意味が今改めて問い直されているのではないでしょうか?こうしたことも考えながら、新しい年度の始まりに備えたいと思います。
 
■神谷地遺跡の大型住居跡(第57回)

 縄文時代中期後葉、土器型式でいうと大木9式、10式期(約4,300年前〜約4,000年前)の住居跡は、全県で300棟以上が発掘調査されています。縄文時代各期の中で最も多い棟数です。
 この時期の住居の形は、円形が基調ですが、輪郭が外側に突出して、台形、五角形、六角形に近い形になったり、隅丸方形になったりするものもあります。形状は様々に見えても、どれも長軸と短軸の長さの差は大きくありません。 
 また、竪穴住居のほとんどには、「複式炉」が設置されています。「複式炉」とは考古学の用語で、埋甕(炉)、石囲い(炉)、土坑が組み合った構造の炉のことです。
 考古学関係者は、東北地方の中期後葉の住居と言えば、即座に「長軸と短軸の長さの差が小さい円形基調で、複式炉がある」住居をイメージすることでしょう。

 横手市雄物川町薄井で圃場整備事業に伴って新たに発見された神谷地遺跡では、発掘調査の結果、大木9式、10式期の住居跡33棟を検出しました。32棟は円形で、そのうちの21棟には複式炉が設けられていました。この時期の「よくある住居跡」です。しかし1棟だけは、この時期にしては特異な形でした。
 それは、全長9.4m以上、最大幅3.3mの細長い、大型の竪穴住居跡です。長軸線上には、等間隔に3基の炉が並びます。石囲炉が2基、地床炉が1基で、複式炉はありません。一方の端部が他の遺構によって壊されているため、全長が確定していませんが、全体の形から類推すると、長さは優に10mを超えます。

 長軸の長さが10mを超える細長い大型の住居、といえば、縄文時代前期の大型住居、ロングハウスが思い浮かびます。発掘当時は日本最大だった能代市の国指定史跡杉沢台遺跡、ロングハウスが中央広場を囲んで放射状に配列されている旧協和町の上ノ山U遺跡等が有名です。
 神谷地遺跡の細長い大型の竪穴住居跡も、この1棟だけ縄文時代前期ではないか、という考えが当然浮かんできます。しかし、この住居は、中期後葉の時期なのです。

 3基の炉と床面は、炭や焼土を含まない厚さ1〜3pの固く締まった土で覆われていました。住居の廃絶時に土を運び入れ、人為的に埋め立てたものです。この固い土の中に数点の土器片が含まれていて、その中に大木9式期に特有の逆U字状沈線文が描かれた土器片が1点あったのです。その他の土器片には縦位回転施文の縄文が施文されていました。つまり、住居の廃絶は大木9式期以降なのです。さらに、神谷地遺跡では3,100uを発掘したにもかかわらず、縄文中期後葉以外の時期の土器が全く出土しませんでした。この住居は中期後葉の住居として、間違いありません。

 前期の大形住居以外で、県内にこのような細長い大型の例はなく、県内初の発見です。この特異な住居が、なぜ、中期後葉に、円形基調で複式炉のある住居の中に混じって存在しているのでしょうか。
 平成25年度にも継続する調査と全体の整理作業によって、解明されることが期待されます。  
 
■藤株遺跡の「定住」(第56回)

 「藤株遺跡」は今年度のミニ・コラムでは3回目の登場です。1回目と2回目(第47回第48回)では、藤株遺跡は明治時代から注目され、これまで多くの学者によって発掘調査や遺物の研究が行われてきたことを述べました。その後、発掘調査は、昭和55年、平成元〜3年、そして今年度も行われましたが、藤株遺跡は面積が約100,000uと広大であり、発掘調査が行われたのは一部にすぎません。しかしその成果から、縄文時代の人々がこの地でどのような活動をしていたのか、その一端を垣間見ることができます。
 藤株遺跡では、縄文時代早期(約10,000〜6,000年前)から人々の活動の痕跡が確認できます。ただ、この時期は遺物が出土するのみですので、日常生活の場ではなかったようです。この場所で生活を始めるのは前期(約5,500年前)で、後期の前半(約3,700年前)まで断続的に集落が営まれます。そして後期の後半から晩期(約3,400〜2,700年前)にかけては、継続して集落が営まれ、何世代もこの場所に住み続けていたようです。晩期には家が造られた場所とは別の場所に、お墓もたくさん見つかっていますので、広範囲に集落が展開していたようです。
 このように藤株の地は、何度も繰り返し集落が営まれた場所でした。湧き水が豊富で、川にも山にも近いこの場所は、縄文人にとって、暮らしやすい場所だったのかもしれません。

縄文時代後期(約3,300〜3000年前)の家の跡
※今年度発見 

縄文時代晩期
(約3,000〜2,700年前)
の火葬墓
※昭和55年発見

縄文時代晩期(約3,000〜2,700年前)の墓域
※昭和55年発見
 
■払田柵跡調査最前線(第55回)

 払田柵跡の調査は今年度で39年目、145回目の調査を迎えました。今までは真山(しんざん)・長森(ながもり)などの丘の上を対象に、政庁(せいちょう)などの重要な施設を中心的に調査を進めてきましたが、現在は周辺の田んぼの調査を進めています。史跡公園に河川跡が復元されているように、周辺の田んぼは湿地帯のように考えられていましたが、調査の結果、重要な発見が相次いでいます。今年度は外郭(がいかく)築地塀(ついじべい)の外側に復元されている、大路東建物南側の田んぼを調査しました。
 調査の結果、丘のすそ野を広げるように盛土造成し、平らな場所を低地側に広げていることと、その造成地とすそ野を区画している大溝のようすが確認されました。また大溝の北側には、建物の一部と考えられる柱穴列が確認されました。大溝と造成地からは、多くの須恵器・土師器のほか、文字が墨書きされた墨書土器や瓦など、役所に関係する遺物も多く出土しました。
 丘のすそ野を巡るように大溝がつくられていて、南側には溝に区画されるように造成地が広がっています。表面に火山灰が少し残っていたことから、大溝と同じく10世紀初め頃につくられたと考えられます。かなりの広がりが確認されましたが、柱穴などの跡は見つかっていないので、もしかしたら広場のように使われていたのかもしれません。これらの溝や造成地は、火山灰が降ってから間もなく起きた大洪水で運ばれた粘土層に、数十センチ覆われていました。
 また今回の調査では、大溝の北側の一段高いところ(丘のすそ野のへり)に、3mほどの間隔で東西に並んだ柱穴が3つ見つかりました。これは建物跡の一部となる柱穴列と考えられ、20年ほど前の第94次調査で見つかった柱穴列の基準線と、直交するように並ぶことが分かりました。もしかしたら大きな広がりを持つ建物であったかもしれません。
 このように、現在では平らな田んぼに囲まれた2つの丘が、払田柵跡の風景と考えられていますが、元々の地形は丘のすそ野の周辺にたくさんの小川が流れる風景であったことが分かってきました。これからも周辺の田んぼを発掘調査することにより、丘の上だけではなく、周辺の低い土地も有効に土地利用を進めていたかどうかについて、調査を進めていきたいと思っています。

第94次・第142次・第144次調査成果

丘陵端部微高地で見つかった3基の柱穴


柱穴の埋土の様子
 
■中世の火葬施設(第54回)

 平成24年度に発掘調査が行われた大仙市の船戸遺跡からは、鎌倉・室町時代頃と推定される火葬施設が3基見つかりました。これらは生活の場から50m離れた地区につくられていました。 
 一般に日本における火葬の始まりは、6世紀に仏教が伝来したあとの700(文武4)年からと伝えられています。その後、奈良時代には仏教の隆盛と共に普及しました。平安時代に入ると一旦下火となり、中世に再び多く利用されるようになりました。ただし、主に火葬で葬送されたのは、富裕層の人たちと考えられています。
 火葬施設には、遺体を焼いた場所でそのまま直に埋葬して墓としたものと、別の場所へ納骨して墓としたものの2種類があります。
 船戸遺跡の火葬施設は、火葬した場所につくられた墓と考えられます。大きさは長さ1.2m前後、幅0.45〜0.63mのほぼ楕円形で、この中に広がる焼土と炭化物に混じって少量の焼骨片が出土しました。長軸方向の両側中央付近に張り出しがあります。これは燃えやすくするための通風口と考えられます。
 船戸遺跡で検出された火葬施設の類例としては、県内では大館市山王岱遺跡、秋田市後城遺跡、同市待入V遺跡、同市秋田城跡、由利本荘市九日町遺跡、大仙市・美郷町払田柵跡、大仙市寄騎館遺跡などがあげられます。
 船戸遺跡の火葬施設は、鎌倉から室町時代頃の小規模なものですが、当時の仙北地方にも火葬が浸透していたことがわかりました。

火葬墓

焼骨片
 
■家ノ浦U遺跡の緑釉陶器(第53回)

 「緑釉陶器」は、名前のとおり緑色の釉薬がかかった平安時代の美しい陶器です。貴族の邸宅や国府・国司の館などからまとまって出土することから、当時の有力者が使用する高級な陶器だったことがわかります。秋田県内で、まとまった数の出土が確認されている遺跡は、秋田城跡(19点)と払田柵跡(36点)だけで、県内においては貴重な遺物の一つといえます。この緑釉陶器が、にかほ市の家ノ浦U遺跡(平成23年度調査)で見つかりました。しかも34点、少なくても12個体分という驚きの数です。
 家ノ浦U遺跡は、9世紀後葉から10世紀前葉を中心とする平安時代の祭祀域および鍛冶関連の工房域です。緑釉陶器は北側にある沢地で多く見つかっており、役目を終えた器を廃棄した場所であったと考えられます。
 家ノ浦U遺跡からは、もう一つの高級な陶器である灰釉陶器が22点、少なくとも8個体分見つかっており、立沢遺跡、家ノ浦遺跡、前田表U遺跡といった近くの遺跡からも、これらの陶器が見つかっています。これだけの陶器が集中していながら、家ノ浦U遺跡を含む周辺の遺跡で行われた調査では、郡家(郡衙)や寺院などの遺跡は見つかっていません。
 家ノ浦U遺跡の調査終了直後、南に1.3kmの清水尻U遺跡の調査で、古代の「官道」が発見されました。海岸と平行に南北に走る道で、秋田と山形を結ぶ重要な道だったと考えられます。注目されるのは、この道の延長線が、家ノ浦U遺跡の西に隣接する現国道7号の路線にあたるということです。家ノ浦U遺跡から出土した陶器は、この官道と関係があるのでしょうか。
 

国道7号と家ノ浦U遺跡

緑釉陶器と灰釉陶器(後中央)
 
■馬の話(第52回)

 平成23年度に発掘調査が行われた、にかほ市の清水尻U遺跡から馬の下顎骨と歯の一部が出土しました。この骨は十和田a火山灰降下後の10世紀頃と推定される地層から見つかりました。
 馬と人間の関係は古く、旧石器時代の遺跡であるラスコー洞窟やアルタミラ洞窟の壁画には、すでに馬が描かれています。日本で馬に関連する遺物が出土した最も古い例は、奈良県桜井市の箸墓古墳の周濠から出土した木製の輪鐙です。この鐙は4世紀初頭のものとされており、この頃から馬と乗馬文化が大陸から入り始めたと考えられています。5世紀になると馬形埴輪が出現し、古墳の副葬品にも馬具が多くみられるようになります。その後、古代になり律令体制が整うと駅制が整備され、馬は中央と地方の間の情報伝達手段として、全国に置かれた駅に配備されました。
 清水尻U遺跡からは古代の道路側溝跡が見つかっていますが、道路は官道ではないかと想定しています。馬の骨は道路の整地面に掘られた土坑から見つかりました。専門家の所見では推定8歳の壮齢馬で、古墳時代から中世にかけての全国の類例と比較して、やや大型だそうです。道路跡から馬が見つかった例は、あまり多くはありませんが奈良県大和郡山市の平城京・下三橋遺跡があります。この遺跡では道路の交差点の下から馬の骨が入れられた穴が見つかりました。道路の地鎮のために埋納されたと考えられています。清水尻U遺跡で見つかった馬の骨も土坑の構築状況から意図的に埋められたと考えられ、道路跡を官道と推定する根拠の一つになっています。
 遺跡から出土する遺物は、たくさんの過去の情報を持ち、歴史を明らかにするチャンスを与えてくれます。清水尻の馬も1000年以上もの時を経て、骨になりながらも歴史の証人として我々に官道が存在した可能性を語りかけてくれているのです。
 

遺跡近景

馬の歯と下顎骨の出土状況
 

■埋まらない竪穴(第51回)

 遺跡は長い年月の間に埋没し、特に地面を掘り下げてつくられた竪穴建物やお墓などは、地上ではほとんど確認することができません。しかしごくまれに、これらが埋まり切らずに現在まで窪地として残っている場合があります。仙北市上桧木内に所在する高野遺跡にはこのような窪地が数多くあり、古くから注目されてきました。

 桧内川流域の遺跡を丹念に調べていた郷土史家の深澤多市氏は、大正15年に窪地2か所を発掘し、これらが地面に掘られた建物跡であることを突き止めました。さらに昭和6364年の西木村による発掘調査では、建物跡が平安時代のものであることを確認し、窪地の分布状況を把握しています。平成23年の埋蔵文化財センターによる調査では、新たにいくつかの窪地を発見し、その数は65か所に上ることが分かりました。そして窪地2か所の部分的な発掘を行い、建物跡が十和田a火山灰の降下した西暦915年より後に作られたことなどが確認されています。

 発掘した窪地は埋め戻されているため、建物跡を直接見ることはできませんが、窪地を観察しながら遺跡を巡り歩くと様々なことに気が付きます。建物が作られた窪地の外周には、竪穴から掘り上げられた土が積まれ、わずかな高まりとなって巡っています。さらこの高まりは部分的に途切れており、この途切れた所ではカマドの煙出しと建物の出入口が見つかっています。窪地の大きさは直径2m程度のものから10mを超えるものまであり、建物の大きさに違いがあったことが窺われます。窪地の深さは一番深いもので1.3mにも及び、県内で調査された平安時代の竪穴の深さが50p前後であることと比較すれば、かなり深く掘り込まれているのが分かります。こうした深さが埋まり切らなかった大きな理由と考えられます。

 遺跡を訪れた人の多くは、1000年以上の時を経た今もなお、当時の建物跡が窪地としてその姿を留めていることに感銘を受けるでしょう。そしてひっそりとした森の中に窪地が点在する光景を目の前にすれば、かつてここにいた人々の姿を重ね合わせ、彼らの暮らしぶりについて自由に想像を膨らませることができるかもしれません。
 


一番深い窪地

窪地の分布状況
■考古学と作図(第50回)

 言葉では表しきれない姿形を、図を描くことによって伝える。何かを記録したり説明したりするときに用いる基本的な方法です。
 秋田の考古遺物について多くの図を残した江戸時代の紀行家に、菅江真澄がいます。真澄は1783年から信州・東北・蝦夷地を巡り、旅先で土地の民俗・風習・風土など多岐に渡る記録を残しました。
 「みかべのよろい」という1編では、開墾で掘り出された土器の破片を描いています。そして、昔は帝が亡くなった時、側に仕えていた者を集めて生き埋めにしていたこと、後に埴輪を作って生きた人間の代わりにしたこと、掘り出された土器の破片はその埴輪の胸に当てた鎧部分なのではないかという考えを書き添えています。そして現在では東北地方北部、縄文時代中期の円筒上層式土器とわかる破片も、この推測に従って鎧らしく見えるように描かれています。
 言葉による表現は、対象の特徴をとらえて記述するため、ある部分が誇張されたり他の部分が欠落したりします。それを避けるため対象の全てをありのままに描く図は重要な表現方法です。しかし、真澄の「みかべのよろい」に見られるように、その図ですらも表す人間の考えが色濃く反映し、時として実態から大きくかけ離れた姿形に変形されるものであることに注意しなければなりません。
 一枚の図には、物の形や大きさなど様々な情報が盛り込まれています。しかし、考古学で用いられる図には加えて、対象に対する考古学的な考えも含み込まれていることを、真澄の図は教えてくれています。

菅江真澄
「みかべのよろい」の図

円筒上層式土器と、
真澄が描いた「埴輪鎧」
の相当部分
■「石コオンツァン」真崎勇助」(第49回)

 「石コオンツァン」という愛称で呼ばれる秋田県考古学界の先哲がいました。その名は真崎勇助(天保121〔1841〕〜大正6〔1917〕)、異彩を放つ業績を残しています。自らも「石癖頑夫」、「石癖道人」と名乗り、彼の考古学的日記『雲根録』(明治7〜大正3年)には、県内の遺跡・遺物について、特に石器を中心とした詳細な図入り解説が述べられています。また研究者・官僚・郷土史家といった人々とのやりとりなども記されています。
 今年度、弘前大学が発掘調査した五城目町中山遺跡は、真崎が明治9年に発見した遺跡ですが、その考古コレクションも、大館市立中央図書館に「真崎文庫」として石器・土器など約6500点が、菅江真澄の著作など多くの古文書とともに残されています。明治19年には、元老院議官で洋学者の神田孝平が秋田に来て、真崎のコレクションの多さに驚いたことが、東京人類学会雑誌に記されています。また、明治14年の天皇御巡行に際しては天覧物世話方を務め、そのコレクションを披露しているほどです。まさに考古コレクターで、自他共に認める「石おじさん」として通っていました。
 その真崎は、明治20年1月に秋田県にとって初めての学術的な考古論文である「秋田県鏃石産地一覧表」(『東京人類学会雑誌』2-11)で、県内9郡88か村95カ所、1228個の石器があることを紹介しています。その後も21年2月に追加し(『同上』3-24)、22年に「秋田県石鏃出所」(『同上』4-38)として補い都合9郡111町村145カ所、154遺跡の所在を確認するなど、県内の遺跡をくまなく歩き、同胞たちからの情報を元にして追加する様子は、『雲根録』の記述からも伺うことができます。その結果、明治後半に近代日本考古学の祖と評される、東京大学人類学教室の坪井正五郎が全国の遺跡をまとめた際には、秋田県が武蔵国についで約200余カ所と2番目の多さに数え上げられています。その中には、前述の中山遺跡の他、本年埋蔵文化財センターで調査した北秋田市の藤株遺跡も含まれています。
 現在、秋田県では約4900ヵ所の遺跡が確認されていますが、その中に真崎たちが見つけ出した遺跡が含まれていることは言うまでもありません。
真崎勇助と雲根録
■「亀ヶ岡式土器と藤株遺跡」(第48回)

 亀ヶ岡式土器は、青森県つがる市(旧西津軽群木造町)の亀ヶ岡遺跡から出土する縄文時代晩期の土器群の総称としてその名称が与えられています。日本考古学の中でも縄文時代研究の第一人者であった山内清男は、1937年に発表した「縄紋土器型式の細別と大別」のなかで、縄文土器の全国的編年表を著し、縄文土器の変化を早・前・中・後・晩期の5時期に大別することを提唱しました。東北地方の晩期については、亀ヶ岡式土器と同じ種類の土器を出土する岩手県大船渡市大洞貝塚の発掘地点A、A’、B、C地点から、大洞B、B−C、C1、C2、A、A’式の六型式に分けました。これに先立ち山内は1930年、「所謂亀ヶ岡式土器の分布と縄紋式土器の終末」の中で、大洞B式とC式の中間に未命名の一型式があるとしていたのですが、当時の東北帝国大学法文学部奥羽資料調査部に所蔵されていた藤株遺跡の資料をもって、その型式に当て大洞B−C式を設定したのです。
 1930年といえば、山内は東北帝国大学医学部解剖学研究室副手の職にありましたが、同じ頃モンテニウスの「考古学研究法」や、東北帝国大学理科大学地質鉱物学教室の教授であった松本彦七郎の層位学的研究法に強く影響を受け、その後の層位学的な土器の編年研究に邁進していました。
 1936年には京都帝国大学教授や東北帝国大学講師を歴任した喜田貞吉との間でミネルヴァ論争を繰り広げました。そして、戦後は縄文原体の研究に取り組み京都大学から文学博士の学位を授与されました。
 日本考古学とりわけ、縄文土器の編年研究にとってはその基礎を築いた研究者であり、山内の唱えた日本の土器の編年は、今もって厳然としてゆるぎない地位を占めています。
 山内が藤株遺跡を訪れることはありませんでしたが、氏の業績とともに藤株遺跡も永久にその名を学史にとどめることになるでしょう。

           「所謂亀ヶ岡式土器の分布と縄紋式土器の終末」から一部抜粋
■「藤株遺跡の発掘」(第47回)

 藤株遺跡は明治の頃から亀ヶ岡式土器を出土する遺跡として全国的に知られた遺跡で、数多くの研究者が訪れているのですが、今から85年前の昭和2年には二人の著名な学者が発掘を行っています。
その一人は論争学者とも異名をとった異端の歴史学者喜田貞吉(1871〜1939)であり、もう一人は当時古人骨研究の第一人者であった清野謙次(1885〜1955)です。喜田は藤株遺跡の発掘で数多くの土器石器を得、当時東北帝国大学に新設の奥羽史料調査部に持ち帰りました。喜田は日本列島の石器時代の下限を巡り山内清男との間で交したいわゆる『ミネルヴァ』論争で、奥羽では石器時代が鎌倉時代まで続いたことを主張します。その根拠の一つにこの地方の石鏃の形のほとんどが逆V字形の有脚であることを指摘します。「わが国発見石鏃の脚について」(昭和8年)という論文では、藤株遺跡発掘で得られた石鏃138個のうち、逆V字形にならない無脚のものが15個に過ぎないことを述べています。さらにこの時の発掘で住居の跡を発見しますが、当時喜田と親交があり一時奥羽史料調査部に嘱託として籍を置いた武藤鉄城が「藤株遺跡の住宅跡」(昭和4年)という論文でそのことを述べています。
 京都帝国大学医学部に籍をおいた清野は喜田と同じ年の8月9日から3日間藤株遺跡の発掘を行います。清野の目的は本来、貝塚からの古人骨を得ることにあったのですが、貝塚の少ない日本海側のしかも内陸の遺跡の発掘でしたから、所期の目的を果たすことはできませんでした。しかし、この3日間の発掘でやはり多くの土器石器を得、特に数多く出土した注口土器について形質人類学者としては珍しいほどに詳しく観察します。そして注口部分に装飾が集中することから土器の正面性の問題を論じています(「羽後国北秋田郡沢口村藤株字高森堂の上遺跡」『日本貝塚の研究』(昭和44年)所収)。
 喜田、清野とも日本の考古学史をひもとけば戦前の中心的テーマの一つであった石器時代人種論、あるいは日本民族論の論者として必ず登場します。彼らの研究には具体的なフィールド・ワークとして藤株遺跡の発掘が関わっていました。間接的ながらも藤株遺跡が研究史上にしめる意味の大きさを改めて知ることができます。

 喜田貞吉    清野謙次
■「鷹巣盆地の古代―米代川の北岸・南岸― 」(第46回)

 鷹巣地域の米代川南岸にある大野台台地の縁辺には、脇神館跡・ハケノ下U遺跡(調査中)・法泉坊沢U遺跡など平安時代(約1,100年)の遺跡が見つかり、発掘調査が行われました。これらの遺跡で発見された住居跡は、地面を掘り窪めた方形をしており、中にはカマドと共に粗雑なつくりの土師器(はじき)が見つかっています。集落は溝や堀で区画されていたようです。一方、米代川北岸沖積地には、平安時代の埋没家屋として有名な胡桃館遺跡があります。板扉の掘立柱建物や「寺」などの文字が刻まれた建築材などが見つかり、役所のような施設と考えられています。国家が編集した歴史書『日本三大実録』には、878年に鷹巣や阿仁地域の蝦夷(えみし)と呼ばれた在地の人々が、他の地域の人々と共に、秋田城に攻め込んだ記録が見られます。鷹巣地域で調査された平安時代の遺跡は、歴史書の内容と関わる大切な資料と言えるでしょう。
■「古代水田の収量」(第45回)

 稲穂の頭が垂れてきました。実りの秋への期待は、現代人も古代人も変わらない心情でしょう。
 横手盆地のほぼ中央に位置する大仙市の半在家遺跡では、平安時代前期(9世紀後半から10世紀初頭)の水田跡が発見されています。蛇行して流れる川の両側に、22枚の水田があり、さらに北東にも水田地帯が広がっていたようです。
 水田跡の一区画は、最大で243.70u(約74坪)、最小で29.11u(約9坪)と小区画です。面積が判明する19枚の水田の合計は2513.18u(約2.5アール)。平安時代の単位では2段75歩。これは、国家から成年男子一人に貸し与えられる口分田(2段)とほぼ同じ広さです。
 この水田から、どれくらいの米がとれたのでしょうか?
 平安時代の規定では、水田の等級を上、中、下、下下の4等級とし、それぞれ米の収量の標準が定められていました。仮に半在家遺跡の水田を中田として、いろいろな換算法を用いて計算すると、19枚の水田から玄米265.76sの収穫があったと推定されます。10アールあたりの収量は105.7s、反収2俵弱です。
 現在では反収が10俵を優に超える仙北の美田。一千年以上の水田耕作の営みを土に刻んで、黄色く色付き始めました。
(半在家遺跡の出土品は、埋蔵文化財センター企画展「小谷地遺跡の灌漑堰」で展示中です。)
■出張展示「黎明期の秋田考古学」(第44回)

 現在、秋田県立図書館にて出張展示「黎明期の秋田考古学」を開催中です。
 今日の秋田の考古学は、多くの先人たちの活動、そして発掘調査の成果の上に成り立っています。秋田の考古学の黎明期を形作った先人たちの業績に焦点を当て、秋田の考古学の歩みを振り返っています。
 特に今回は、真崎勇助・東山多三郎・蓑虫山人・武藤鉄城を取り上げ、彼らの著作物・収集物を展示しています。
 展示物や先人たちの足跡について解説するギャラリートークも開催いたします。是非ご覧ください。

TOP   平成19年度   平成20年度   平成21年度  平成22年度 平成23年度 平成24年度