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秋田県情報公開課
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◆『あ!きた。』的こぼればなし▲真田幸村の娘のお墓が岩城町にあった!Part2by T.S
真田幸村の娘のお墓が岩城町に建てられた経緯は?〜妙慶寺の住職さんにお聴きしました〜時は元和元(1615)年3月、大阪城の落城が間近なことをさとった真田幸村は、 身重の夫人隆清院と娘(お田の方)を呼び寄せて別れを告げます。「戦雲いよいよ急な り〜(中略)〜到底戦勝おぼつかなし、汝ら早く大阪城下を立ち去らんや」 やがて、幸村は徳川方との激しい戦闘の末、壮絶な最期を遂げますが、幸いお田の方 は母親とともに無事大阪を逃れます。 歳月は流れて、お田の方は京のさるお屋敷に奉公にあがる身。そこをたまたま訪れた 秋田藩初代藩主の佐竹義宣と弟宣家がその気品ある立ち居振る舞いを見初めたことから 話は急展開。宣家の側室に迎えられ、やがて長男重隆をもうけて正室になります。そし て幼少の重隆が亀田藩の藩主に任じられたことから、夫宣家ともども亀田藩に住むこと になったということです。 ちなみに、今でもこの妙慶寺には幸村やお田の方を慕って全国各地から訪れる人が絶 えず、昨年は岩城町で真田家ゆかりの地域の人たちが集まって「全国真田サミット」が 開催されたといいます。真田幸村への人々の思いはいまだ衰えず、といったところでし ょうか。 〜追伸〜 取材の中で、真田幸村本人のお墓がなんと大館市にあるというびっくり情報。フット ワークが信条のT.S。もちろん大館まで行ってきました。 場所は、大館市の中心部にある「一心院」。墓地の一角に確かに幸村のお墓がありま した。 地域に残る古文書によれば、大阪城で討ち死にしたのは幸村の身代わりで、本人は身 分を隠して大館まで落ちのび、この地で天寿を全うしたとのこと。 ただし、幸村の生存伝説は数多くあり、そのお墓なるものも全国に10カ所以上ある といいます。これなども「判官びいき」のあらわれ、源義経が生きのびてジンギスカン になったという伝説と同様、幸村を大阪城で死なせるのは忍びないという庶民の切なる 願いが生んだ物語ではないでしょうか。 それにしても秋田と真田幸村、ずいぶん関係が深かったんですね。こんなところにも 秋田の歴史の豊かさ、懐(ふところ)の深さを実感させられました。
お田の方の石碑
(後方にはお田の方など一族の墓石が)
右から二つ目がお田の方の墓石
(右隣がお田の方の母親の墓石)
碑に刻まれたお田の方の肖像
長男重隆の健やかな成長を願ったという
「顕性院殿(お田の方)水行の井戸」
よろいや短刀、衣類など、お田の方ゆかりの品々
が納められている「宝物殿」(冬期間は閉館)
お田の方や妙慶寺の由来を詳細に説明
していただいた妙慶寺の住職さん
近くにはテレビドラマ「砂の器」にも登場する
「羽後亀田駅」(ただし歩くにはちょっと距離あり)
一心院の本堂(幸村のお墓はすぐ近くに
あります)
真田幸村のお墓(右) 墓石が傷んで
きたので左に建て替えました