秋田県雄勝郡羽後町軽井沢・・・茅葺き民家と棚田
 羽後町軽井沢周辺は、山の懐に抱かれ、茅葺き民家と谷川に向かって階段状に造られた棚田が連なっている。中でもアザミ沢集落は、日本の昔話に出てくるような懐かしさを感じる。それは、私たちの暮らしの原点が、自然の恵み豊かな山村にあるからではないだろうか。
 「私が気に入っているのは、昔ながらの農村風景が残るところです。田んぼや畑や果樹園があって、屋敷林に囲まれた農家があって、道路には、赤い頭巾のお地蔵さんや、かわいらしい野の花たち。
 こんな風景の中を、のんびりと歩いていますと、身も心も生き生きとしてきます。きっと温泉に入っているように、安らいだ気分になれるからでしょう。温泉や森林で元気になれる人がいるように、私はたぶん、農村の田園風景で、たっぷり元気をもらっているのだと思うのです。・・・」(「カントリーウォーク」山浦正昭著、NHK生活実用シリーズ)
 軽井沢の地名の由来・・・昔は、荷物の輸送に馬背を利用したが、険しい山道になると、荷物を人の背に積み替え運搬した。その運搬夫を「軽子(かるこ)」と呼んだ。軽井沢の地名は、「かるう沢で荷物を積み替える場所」を意味している。

 羽後町軽井沢は、標高713mの八塩山の麓にある。その山の反対側にも矢島町軽井沢の地名がある。つまり、両軽井沢で馬から人の背に積み替え、八塩山の険しい尾根筋の杣道を歩いて双方から物資の輸送が行われていたことが推察できる。
 蒐沢は「あざみざわ」と読む。「うご町の地名」(鈴木俊男著、書店 ミケーネ)によれば、草のアザミなら漢字で「薊」だが、字を誤って「蒐」と書いたのが、そのまま地名になったと推測している。元西地区にある沢には、「薊沢(あざみざわ)」という名前もある。

 熟語の蒐田は、狩り、狩猟を意味する言葉だという。田代上仙道やすぐ隣の鳥海町にもマタギ集落があった。そうした田畑の少ない山間奥地であることを考えると、山に依存した狩猟+農耕の暮らしがあったことは否定できない。そう考えると、「蒐沢」の地名こそふさわしいようにも思う。
 蒐沢から田茂ノ沢に向かって右手に入ると、その高台に茅葺き民家が数軒建っている。羽後町郷土史によれば、「山奥の部落には、隠田集落といわれる落武者の隠世して定着したとされるところもあるが確証はつかめていない」「飯沢・・・田代・仙道・明治の各地区にも落人となって、それぞれの地に来たり土着したことが伝えられる」とある。

 田代、仙道地区は、子吉川水系の源流に位置し、四囲が山に囲まれた山間奥地であることを考えると、中央、地方を問わず、戦に敗れた落人が隠れ里としてこの地を選んだと考えるのが自然なように思う。
 蒐沢の棚田は、標高250mから300m前後の高所に分布している。昭和40年代後半、地形に合わせた10a〜20aの田んぼにほ場整備された。整備される前の田んぼは、平均200〜250u前後で、現在の田んぼ一枚に5枚から15枚もの小さな棚田が千枚田のように谷筋に向かって連なっていた。

 当時の営農を安倍忠雄さん夫婦は次のように振り返った。昭和40年代後半までは、機械も入らない湿田で、耕起から稲刈りまで全て人力であった。中には、湿田に腰まで浸かったり、鍬で畔のクロ塗りをすれば、稲を植える場所がなくなるほど小さな田んぼだった。
 急な斜面の高台にある茅葺き民家(蒐沢・安倍忠雄さんの茅葺き民家)。隣の家に行くにも、対岸の田んぼに行くにも、急な斜面を上り下りしなければならない。この民家の裏手には、美しき棚田が広がっている。
 祖先は、山に田んぼを拓いて住むために、まず渓流や湧き水があることを確認した。渓流から家に水を引くには、竹の節を抜いてつないだり、流水溝を掘って台所や庭の池に引いた。池には、観賞用の錦鯉と食用の鯉を飼っている農家が多いのも、雄勝地域の特徴である。
 山上のため池(蒐沢・安倍忠雄さんが管理しているため池)・・・大きな川は、深い谷底にあるので水を引くことができない。多くの場合、小さな沢が主な主水源。春の雪解け水は冷たく、度々冷害をもたらす。夏の渇水期には、水が枯れてしまう。そこで祖先は、上流に土手を築き、温水と貯水を兼ねた「ため池」を作った。羽後町には、こうした農業用ため池が非常に多く70ヶ所をこえる。
 高台の家のすぐ裏手に広がる棚田・・・山で生きていくためには、まず食べ物を得るために田畑を拓かなければならない。住まいは、拓いた田畑の傍に建てた。アザミ沢右岸の村は、山の斜面に家と家とが離れて建っている。それは、自分の家の田畑を見守る所に建てたからであろう。
 勤勉な水土里の風景・・・田んぼより広いような畔の法面だが、全てきれいに草刈りがなされている。手入れの行き届いた棚田の風景から、厳しい自然・風土に逆らわず、勤勉さに貫かれた百姓の魂が伝わってくる。だから美しい。
 平地の田んぼでは、草刈りが面倒だからと、畔に除草剤をまいた光景をしばしば見かける。だが、棚田が連なる急斜面に除草剤をまいたらどうなるだろうか・・・草は根まで枯死し、土はボロボロになり、ついには崩壊してしまう。

 つまり、一見邪魔だと思わえる畔の雑草は、急な棚田の法面を保護している。そのことを山村に生きる人々は、肌で知っている。自然との共生は、こうした持ちつ持たれつの微妙なバランスの上に成り立っている。
 築120年ほどの茅葺き民家。この地方の茅葺き民家は、曲がり家と長方形の二種がほとんど。民家から離れた右手の高台には、板倉、茅葺き小屋など古い小屋が4つも並んで建っていた。
 菜の花と古い小屋・・・右の小屋は茅葺きで「薪」を入れる薪小屋、左の小屋は屋根葺きの材料「茅」を入れる茅小屋だという。
 板倉・・・かつては、モミを貯蔵していた小屋。入り口には、大きな錠前がある。大事な主食米を火事で焼失しないよう、家から離れた高台の板倉に貯蔵した。明治時代、「豊作の年こそ不作に備えてモミを蓄えよ」という石川理紀之助が呼びかけた備荒倉構想があった。そうした備蓄モミの役割も果たした。
 茅葺き屋根の材料「カヤ」・・・カヤ刈りは、稲刈りが終わった10月末から雪が降るまでに行うのが一般的。刈ったカヤは、3尺くらいの縄で束ねる。束ねたカヤは、屋根のあるところに立てかけるか、木にくくりつけて冬を越す。
 棚田特有の排水溝・・・段差の大きい田んぼは、上の田んぼからの漏水あるいは地山から湧水が法尻に浸み出す。落差の大きい棚田は、写真のように長辺方向の法尻に排水溝を設け、そこで漏水や湧水をキャッチし、田んぼを乾きやすくするための工夫をしている。特に湧水が浸み出す場合は、この排水溝で暖めてから、田んぼに入れるなど、無駄のない水利用がなされている。
 雪国の民話に出てくるような懐かしい風景・・・茅葺き民家とタンポポの黄色やフキの緑葉、スイセンの白と黄色の花が彩りを添えて美しい。この畔道を歩いていくと・・・。
 山村の風物詩・ゼンマイ干し・・・茹でたゼンマイをムシロなどに広げて干し、まだ柔らかいうちに両手で丹念にもむ。緑色だったゼンマイは、干しあがると黒っぽくなる。食べる前に水でもどすと茶色になる。
 雪国の山村では、冬の間、畑で採れる生鮮野菜はなかった。それだけに、春の雪解けともに生える山菜は、待ちわびた山の野菜だった。タラノメ、コゴミ、アイコ、ホンナ、シドケ、ミズ、ウド、ゼンマイ、ワラビ、タケノコ・・・山村では、米作りの合間をみて山に入った。

 数ある山菜の中でも、ゼンマイは、貴重な現金収入源だった。茹でて天日で干したゼンマイは、高い値で売買された。ゼンマイが採れる時期になると、山の中に造ったゼンマイ小屋に泊り込み、ゼンマイ採りに専念する家もあった。
 蒐沢集落中心部の棚田。5月の連休前後になると、おばあさんが孫の成長を祈って、ハサ掛けの木杭に「鯉のぼり」をつなぐという。「ハサ掛けの鯉のぼり」・・・ぜひ見てみたいと思う。
 「何百年も前に拓かれた棚田は、原始的な力強さや生命力を漂わせている。そのような古い歴史を持った田畑は゛神聖な土地゛と呼ぶべき場所だと思う。その棚田自体が、現在と過去の・・・人びとの記念碑であり、単なる農地を越えた日本の社会的、歴史的遺産だと思う・・・」 (写真集「たんぽぽ」ジュニー・ハイマス、NHK出版)
 棚田を耕す・・・美しき棚田を維持するには、大きな労働負担が伴う。棚田の農道は狭く、一枚の田んぼの面積も小さい。自由に運搬車や農業機械が使えないため重労働を強いられる。それに追い打ちを掛けるように、高齢化が急速に進んでいる。その結果、山間部に点在する棚田を中心に耕作放棄が連鎖的に拡大している。
 中山間地域等直接支払制度・・・平成12年から、条件が不利な中山間地域の棚田と文化的景観、生物多様性の保全、国土・環境保全などの多面的機能を維持するために、中山間地域の農家に対して所得補償の一種である直接支払制度が始まった。以降、平成16年までの5年間にわたって実施された。

 その結果、写真のような美しい棚田(蒐沢と最奥の村・田茂ノ沢の中間部)が維持保全されてきた。この直接支払制度は、棚田の耕作放棄に歯止めをかける有効な施策であると評価され、平成17年から21年まで、5年間継続されることになった。
 蒐沢(あざみざわ)の田んぼの畔に生えていたアザミ。
 山の神様を祀る鳥居から棚田を望む。山の神は、田畑と山の境にまつられている。蒐沢番楽は、鳥海町平根・八木山の系統と言われ、戦前は大変盛んだったという。また民謡踊りも盛んで、番楽とともに村最大の娯楽だった。
 茅葺き民家の軒下で、のんびり日向ぼっこをしていた猫たち
 棚田に遊ぶキジバト(ヤマバト)・・・「デデー ポーポー」と鳴く。
 棚田を流れる美しき水・・・底まで透き通るような水がせせらぎの音を立てながら流れている。水も、米も、野菜も、山菜も、風景も、しこたま美味い。
 軽井沢岩瀬の沼に遊ぶカエル
 軽井沢田茂ノ沢集落・・・江戸時代の紀行家・菅江真澄は、田茂ノ沢と鳥海町八木山を結ぶ「冬の八木山越え」を次のように記している。

 「カンジキを履いて凍った雪の上で木材を運ぶ木こりに聞くと、この山を下れば秋田領ですと教えてくれた。・・・幾筋かの道は熊や猿の通った跡だという。はるか谷底に人家はあるが、雪の下となって、煙だけが立ち上っている。ようやく山を下りると、路のかたわらに、大雪にも隠れず大きな柱が立っている。

 ゛田畑のものを盗み取ったものはこの柱にくくりつけるべし゛と書いてあった。これはどこの村でも入り口にたてているものである。こうして一日中雪に難儀しながら田茂ノ沢という家が三軒ある村に宿を求めた。軒下には滝の糸でもみるように垂氷のかかっているのに夕月の影がさやかにうつるのを仰いで眺めた。

 見るかげの さむけくもあるか 夜とともに 垂氷にうつる月はすさまじ」(「菅江真澄秋田の旅」田口昌樹著)・・・豪雪の中、獣道に等しい八木山越えがいかに「すさまじ」いものであったかが伝わってくる。深い谷底に三軒の家とあるが、この集落には記録も言い伝えもないという。しかし、当時の三軒の家とは、真澄が一夜の宿にした家は・・・など、あれこれ想像するのも楽しい。
 軽井沢上村集落・・・舗装された道路から撮影しようとすると、電柱が邪魔になる。田んぼの畦道に入っていくと、素晴らしい撮影ポイントに出会う。農山村の車道から外れた田んぼの畦道や野道、里道をのんびり歩けば、さまざまな自然や文化、田園風景を発見できる。そんな「ふるさとの原風景」を歩くことを「カントリーウォーク」と呼ぶ。
 軽井沢落合集落・・・数軒、茅葺き民家がまとまっているので絶景ポイントの一つ。春の新緑と田植え、夏の草取り、秋の稲刈り・ハサ掛け・紅葉、雪に覆われた山里・・・四季折々、美しい水土里の風景を見せてくれることだろう。
参 考 文 献
「羽後町郷土史」(羽後町郷土史編纂委員会、昭和41年3月)
「うごの地名」(鈴木俊男著、書店ミケーネ)
「昭和の暮らし2 山村」(須藤 功著、社団法人農山漁村文化協会)
「カントリーウォーク」(山浦正昭著、NHK生活実用シリーズ)
「日本の棚田百選」(青柳健二著、小学館)